記録と記憶

京都府南丹市美山町。居並ぶ茅葺家屋は、記憶であり記録である。

就職してからシステム手帳を活用している。
かれこれ32年ばかり世話になっていることになる。
社会人1年目、仕事中、営業車の屋根に置いて
そのままクルマを走らせて失くしてしまった。
3日後、警察から連絡があり戻って来た。
親切な人が道端に落ちていたものを届けてくださった。
手帳の中に名刺を入れていたのが幸いした。

こんなことが何度かあったものの
ぼくはシステム手帳を使い続けた。
リーフにもさまざまな工夫を凝らしてきた。
今では、デイリーリーフは
オリジナルのものを自分でプリントアウトしている。
このシステムがないと身動きが取れないような
そんなかけがえのない存在となっている。

5年ほど前に、管理を一元化しようと
モバイルのアプリケーションを用いたシステムに移行した。
画面操作ですべてをマネージメントしようとしたのだ。
でも、1年でギブアップした。
システム手帳なら、余白にメモできる。
でも、モバイルではそれができなかった。
決まった場所に記入するしかできなかったのである。
ぼくは、そのフレキシビリティの無さに辟易してしまった。
とてもアナログ的だけれど、
現在のマネージメントシステムに満足している。

ただ、ひとつ不満がある。
これはアナログとかデジタルとか関係ないのかもしれないが
記録を残すことで、記憶が希薄になっていることである。
記入することで、脳が安心してしまうのかもしれない。
ここ20年ばかりの記憶がかなり疑わしい。
思い出せないことがたくさんある。
カミさんが憶えていることでも、ぼくは憶えていない。
子どもにあれこれ聞かれても答えることができない。
まったくもって、蚤の記憶力しかないのだ。
なんとも哀しい事態である。

一方、リーフを手繰れば、いつのことでもピックアップできる。
7年ほど前のことだが、知人からその頃に起こったことを
調べてくれ、と依頼されて即座に確認することができた。
このときばかりは、記録の力というものを実感したものだ。
シートを見れば、忘れていたあの頃を
鮮やかに思い起こすことができるのだ。

記憶か記録か。
やはり、今のご時世では記録が重視される。
記録でないと第三者に伝えることができないからだ。
記憶では、そのあやふやさが指摘されてしまう。
記憶違いじゃないの、とか。
逆にいうと、世間は「記録」とされたとたんに
全面的に信用してしまう傾向にある。
それが恣意的に改ざんされていたとしても。
公式という冠などがついていると尚更である。
それは、それで怖いことだと思う。

しかし、それも最近の公文書改ざんなどのあおりで
信じることが怪しくなってきた。
もう記憶も記録も全面的に信用できない。
そんな時代になってしまった。

最近、古文書にあたる機会が多い。
学者のみなさんは一次史料だとか二次史料だとか
書かれたのが当該事象からどれくらい歳月を経ているかで
分類しているようだけれども
同時期に書かれたからといって正確ではないように思う。
もし、とても偏った視点で書いていたとしたら
事実は大きく捻じ曲げられているかもしれない。
歳月が経ってしまうと真偽のほどを確かめるのは
ほとんど不可能になってしまう。
複数の史料が同じことを綴っていると
信ぴょう性が高まるというけれど
そこで口裏合わせで書かれていたら…
そう思うと信ぴょう性とはなんぞや?と思ってしまう。

もし、ぼくが
「我こそ日本国の覇者の森壹風である」
と綴った紙片を大切に保存したとしよう。
それから1000年後、今の人類が滅んで、
まったく異なる生命体が地球を支配していると仮定しよう。
ぼくが書いた紙片をその生命体が発見した時、
「そうか、1000年前には日本という国家が存在し、
それを森壹風という者が治めていたのだろう」
と考えなくもないな、と思うことがある。

記録だからと100%信用することはできない。
今は、そんなふうに考えている。
そこには、必ず何らかのフィルターが働いているのだから。

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