文章には、情報のみを正確に伝えるものと
なんだかよく分からない情感を匂わせるものという
二種類があると思う。
いわゆるコピーというのは、その際にうごめいている
物の怪の類ではないだろうか。今は、そう思っている。
ぼくが広告業界に入った80年代末。
コピーは、ひとつのエンターテインメントだった。
糸井重里、林真理子、川崎徹…
クリエイターはスターだった。
本当は、コピーは先の二種類の分類でみるなら
間違いなく前者、情報のみを正確に伝える文章である。
ま、情感に訴えて買ってもらうという手段ではあるが。
でも、企業としては情報を伝えてほしいことだろう。
そこをコピーライターたちは
うまくごまかして、自分の書きたいものを書いた。
世間はバブル真っ只中。
企業はお金を握っていたし
マスコミはこぞって面白いことを求めた。
面白くなければテレビじゃない
目玉のマークのテレビ局は
高らかにこんなフレーズを謳いあげていた。
今とは、価値観が反物質的に異なっていたのだ。
そんな空気感の中で、ぼくは生きていた。
あれから30年。
価値観は逆転してしまった。
コピーは日本語で書かれる。
日本語は、基本的に、日本人なら誰でも使える。
「てにをは」が分からないから書けない…
親父世代、つまり昭和ひとケタの人々は
そんな文言で、公に自分の文章をさらすことを
とことん避けていた。
そんなスキをコピーライターがついたのだ。
でも、多くの人が気づいた。
文章は誰でも書けるのではないか…と。
一方、コピーライター業界も質が落ちていた。
なんとなくコピーを書いている人間が増えたのだ。
裾野を広げると、こういう弊害が起こる。
一流のプロを守るシステムがないから
こういう事態に陥るのだろう。
今更、そんなことを言っても仕方がないのだが。
ということで、コピーライターは
絶滅危惧種となった。
いや、正確に言うと
四天王寺の亀池のカメたちのようなものだ。
かつては、イシガメやクサガメが席巻していたというが
今や、アメリカ産のアカミミガメなどとの
混血種が多勢を占めている。
純国産種はまったく見られないのだ。
コピーライターも同様で、
コピーライターもどきはたくさんいるが
ほんとうのコピーライターはほとんどいない。
そういう意味では、絶滅危惧種に他ならない。
ほとんどWebライターなるものに席巻されている。
息の根を止められるのも、そう遠くなさそうだ。
さて、私はどうしたものか。
Webライターもどきになって生き延びていくのか。
それとも最後のコピーライターとして花道を飾るのか。
いずれにしても文章を書くことは続けるだろう。
それが、どんなスタイルなのか。
それは、自分で決めること。
いろいろと新しい芽は出てきている。
できれば、情感を匂わすもの書きでいたい。
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