アンケート

昨日の夕方、携帯が鳴った。丁度、ある人に電話して返事待ちだったので、その返信かと思ったのだが、着信番号を見ると、見たことのないフリーダイヤルのナンバーだった。少し訝しかったのだが、「ま、いっか」と出てみた。時にぼくは勇気のある人間なのだ。

出たとたんに、電子音バレバレの女性の声が耳に入ってきた。「電子音声で失礼します。現在、無作為で携帯電話に発信して、内閣支持率の調査を行っています…ご協力いただくと、100円を被災地への支援金に回すことができます」と。最後の一言がトリガーになって、受けることにした。アンケートに答えるだけで、被災地支援ができるなら、と。時にぼくは社会貢献のことも考える人間なのだ。

アンケートの返答は、送られてきたショートメールにチェックを入れて送り返すという形式だった。きっと、これが数日のうちに新聞かテレビかの全国世論調査として発表されるのだろう。なんとなく時代の当事者になったような気分だっ自分の意見が世論として世間に出回っている。ちょっとうれしいような気分だった。

学生時代、読売新聞の世論調査のバイトをしたことがある。あれは確か国政選挙がある直前だったと思う。担当者から渡されたリストに基づいて、そこに記載されている家を訪問して回答をもらう形式だった。35年近く前のことだから、ほとんどの家で玄関払いされた。「そんな政治的なこと、なんであんたに話さなあかんの!」と、たいていの家で罵声を浴びた。世論調査って怖いな、という印象が残った。

こんなトラウマもあって、今回のアンケートを引き受けたのだと思う。相手は電子音声だけれども、なんか断ると可哀そうな気がして。まったく馬鹿げているかもしれないな、とも思うが、それが、自分らしさなのかもしれない。アンケートに答えたからといって、別に命を取られるわけじゃないから…。

〇〇だからといって、別に命を取られるわけじゃないから…。この考えが、ぼくの根底にあるようだ。この考えに沿えば、時には大胆に動くことができる。でも、逆に、安請け合いというか、安易な行動につながることもある。収集のつかない事態を招くこともある。少し気をつけないといけないな、と最近つくづく思う。もう少し、自分の行動に結界を張ろうじゃないか、と。

アンケートの話題に話を戻そう。メディアを見ている限りでは、秋の総裁選挙は、安倍首相の独壇場の様相だ。あれほど、けったいな行動や答弁を重ねながら一強で居られるのか…まったく理解に苦しむのだが、政治の世界というものは、そういう世界なのかもしれない。いっそ、小泉進次郎氏が出馬すれば、と思うが、政界では、そういったサプライズはないのだろう。予定調和の世界だなぁ。

もうそろそろ、議会制民主主義というOSが限界を迎えているように思える。昨日の『西郷どん』で、勝海舟が西郷どんに言ったセリフが頭に残っている。「もう幕府を見限ってもいいんじゃないか」。今、政治的環境というか風潮は、江戸時代末期にとても似ているんじゃないだろうか。ただ、いったい誰が、西郷どんや大久保利通、桂小五郎、坂本龍馬になるか…だ。

維新の時代が再現されればいいが、この政治的殺伐感は、応仁の頃にも似ているかもしれない。都を戦火で焼き尽くし、戦国時代という乱れた世を生み出す原因となった応仁の乱。そんな状態が起こらないように祈るばかりである。

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鏡の向こう側

鏡に映っている自分は、実在する自分に対して、どんな意識を持っているんだろう?

松岡正剛氏が校長を務める「ESIS編集学校」。これは、編集術をネットによるeラーニングシステムを使って教えるという学校だ。基本編の「守」と応用編の「破」というコースがあって、両方を修了すると、生徒から教師に昇格するための「花伝所」というコースに進むことができる。せっかく編集術を学ぶのだから、教えられる立場だけでなく、教える立場も軽信しておこう、ということで参加した。生徒と教師の両方を体験することで、すごく立体的に編集を体得できたと、満足し、感謝している。

その「花伝所」の東京実習での話をしてみたい。3回ほど、東京に出向いて、松岡校長と講師陣から師範代(eラーニング教師)の研修を受けるのだが、最終回にある講師から質問を受けた。「みなさんが花伝所に来た目的は何ですか?」と。多くの受講者が、「編集術を教えることで、もっと編集を深く体得できる…」みたいな発言をしていた。その時、ぼくは、「鏡の向こう側に何があるのか知りたかった」と答えた。

花伝所を修了して、「守」と「離」の師範代を経験したのだが、ずっと最終回での発言が頭の片隅に残っていた。「鏡の向こう側」が見えてこないのだ。

鏡を前にすると、鏡面には自分自身が映っている。左右反転しているが、明らかに自分自身の顔がそこにある。それを見ているのは、まさしく自分自身であり、見ていると意識しているのもこちら側の自分自身である。でも、考えてみると、鏡に映っている者も自分自身である。その人物は意識というものを持っていないのだろうか。鏡に映った自分が、実在する自分に対してなんらかの意識を持つことはないのだろうか。それを想像…いや、認識することはできないのだろうか。そういう考えが基本にあって、先の発言をした。実在の自分と鏡の中にいる自分をつなぐことはできないのか…そんな思いが「鏡の向こう側」という発想をうみだした生み出したのだ。まるで、ヒーロー動画『ミラーマン』の世界であるが…。

それから数年経って、ある能楽師からこんな話を聴いた。「舞台に立っている時は、もう一人の自分が客席にいて、とても冷静に舞台で舞っている自分を見つめている。彼の意識が舞台にいる自分の中に入ってきて、舞に指示を与えてくれている」と。この話を聴いて、「!」と思った。「鏡の向こう側」とは、こういうことではないのか!と。鏡の中にいる自分を意識するということは、自分からあたかも幽体離脱したような自分の意識で、自分を見つめることではないか。それは、損得や利害、自分の立場、他人との関係…さまざまな雑念ともいうべきフィルターをすべて捨て去って、なにか大いなる「理」とでもいうべき尺度で、率直に自分を見つめること。言葉にするのは容易だが、実際に行うことはとても難しい。

最近、過酷な状況に陥っている。ついつい自分を卑下したり、否定したりしてしまっている。そんな中、自分とは何か…ということをすごく第三者的に見つめる術があることを知ることにつながっているかもしれない…と気づいた。「我思う故に我あり」。デカルトはすべてを否定して、この命題を発見したのであるが、我を思っているのは、実は鏡の向こう側にいるであろう自分なのかもしれない。そこまでは、なんとなく理解したのであるが、まだ、鏡の向こう側にいる自分とはつながっていない。そうなることが、つまり「悟りをひらく」ということなのだろうが、まだまだその域には達していない。まさに、ぼくのライフワークなのだと考えている。

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あいこ

グーはチョキに勝つが、チョキはパーに勝つ、パーはグーに勝つ。誰かに勝っても、誰かに巻ける。じゃんけんは、絶対勝者がいない。

お茶屋遊びのひとつに「とらとら」というのがあって、二人が対になって勝負する遊びである。対戦者は、「和藤内」「お婆」「虎」のいずれかになって、みんなから「とら、と~ら、と~ら、とら」と囃したてられながら、隠れている衝立からでてくる…そんな遊びだ。別名「虎拳」とも呼ばれている。

「和藤内」とは近松の『国姓爺合戦』の主人公。日本(和)でもなく唐(藤)でもない(内)というしゃれから生まれた名前だ。豪傑の人だったが、ただ唯一、自分の老母には頭が上がらなかったという。だから、「和藤内」は「お婆」には勝てない。その「お婆」は、「虎」に食べられてしまう。だから「お婆」は「虎」には勝てない。「虎」は、豪傑の「和藤内」に撃たれてしまう。だから、「虎」は「和藤内」には勝てない。

…というふうに、それぞれに勝てる相手と負ける相手がいて、誰が一番強いかを決めることができない。いわば、人間じゃんけんのような遊びである。そこには、絶対勝者というものが存在しない。それが、じゃんけんの魅力なのではないか、とぼくは考えている。

勝つときもあれば、負けるときもある。あいこになるときもある。これって、「人生」だなぁ、と思う。特に、あいこに人生の機微を感じるのだけれど…いかがだろう。

たくさんの人が集まって、じゃんけんをすると、あいこばかりが続いて、なかなか勝負がつかない、というか、勝負にならないことがある。人生って、そんなものなのではないだろうか?本人は、十分に勝負している気でいるけれども、実際は、勝負になっていないことって多いのではないだろうか。ほんとうは、勝負しなくたっていいのに、何か戦っている感がないと満足できないので、かたちだけでも勝負しているフリをしている。考えてみると、そんなシーンっていっぱいあるように感じる。ムリして、勝負することもあるまいに、と。

そんな勝負に対する脅迫観念が、「競争社会」をつくり出してはいないか。勝ち負けに価値を見出すような世情をつくり出してはいないか。今は、「グー」に勝ち目があるよな…なんて、考えがはびこっていないか。多様性の時代だ。「グー」でも「チョキ」でも「パー」でもいいではないか。自分の好きな手を出せばいいのだ。勝てるかどうかは、時の運。好きな手で負けたなら、本望ではないか。絶対勝者の手なんて、ないのだから。

 

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心頭滅却すれば…

よく働いた後のビールは、「心頭滅却」させてくれる!

今から遡ること四百三十年ほど前の天正十(1582)年、武田勢の禅僧・快川紹喜は、敵である織田信長に自山の恵林寺を焼き討ちされ、焼死したという。その時、遺した辞世が、「安禅不必須山水 心頭滅却火自涼」。いわゆる「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。意味は、「心の中から雑念を取り去れば、火でさえも涼しく感じられる」ということ。なんでも心の持ちようだ、ということなのだろう。この言葉、もともとは、9世紀に実在した中国の禅僧・杜荀鶴の詩集『夏日悟空上人の院に題す』に収録されていたものの転用だといわれている。

この「心頭滅却すれば…」という言葉は、超有名で、ぼくも子どもの頃から知っていた。中学生の頃の夏のクラブ活動では、よく口にしていたのを憶えている。あの頃は、練習中の水飲みはもちろん禁止、暑さで倒れようものなら、「根性がない」と叱責されたものだった。今のご時世と比べたら、信じられないくらいのスパルタの中で、ぼくらは育っていたんだなな、と思う。

現在の東京の7月の平均気温が70年代に比べて、なんと3℃も上昇しているという。半世紀近くで3℃というと、それほどでもないな、と思ってしまいそうだが、ある試算によると「気温が3℃上昇すると海水面が9m上昇する」とされているそうだ。ちょっとした防波堤なら軽々と超えてしまうほどの大事なのである。

地球温暖化の恐怖を生々しく感じている今日この頃、まだ、「暑さに耐えられないのは、根性が足りないから」と発言しているお爺様がけっこういらっしゃると聞く。「学校にはエアコンはもっての外」とか、それこそ「心頭滅却ができていない」との言葉が飛び交っているそうな。確かに、世間全般で、「我慢する」という姿勢が見られなくなっているようには感じるが、やはりこの異常気象。いくら、心頭滅却しようとも、暑いものは暑い。紹喜和上だって、結局、火に焼かれて命を落としたではないか。やせ我慢し過ぎてても、仕方がない。

サウナの如く熱風が吹き荒れる日には、ひと仕事終えて、風呂でさっと汗を流した後に、冷たい麦汁をクククククー!と飲み干すのが、一番の「心頭滅却」ではなかろうか。この心地よささえあれば、熱々の料理だって涼しく感じられるはずだ。

まだまだ、紹喜師の域には近づけそうもなかりけり…である。

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