No Wind No Blow

風が吹いている。でも、風を直接見ることはできない。吹かれる草木を見て、風があることを知る。

風は、動いてこそ風になる。動かなければ、ただの空気にしか過ぎない…。時々、この話をすることがある。風を起こしたいなら、まずは、空気を動かすことだ。

凪という現象がある。風冠に止と書いて“凪”。うまく考えたなぁと思ったら、やはり国字だった。国字というのは、日本でつくるれた漢字のことだ。よく知られている国字に、峠(山を上がり下がりする)、畑(田を焼くのが畑)などがある。風が止まるから“凪”。なんとも日本的な表現だと思う。こんな風に、編集センスを活かしてつくられた国字は、ある意味、日本文化の象徴であり、誇りであると思う。中国でも逆輸入して使っているそうだ。

閑話休題。風の話である。風は直接、目で見ることはできない。小枝が揺れるとか、何かが風で飛ばされるとか、間接的な現象を見て、風を感じている。あるいは、風の強さを肌で感じるとか、音を聴いて存在を確認するとか、触覚や聴覚で認知していることも分かる。直接、視覚で認知できないということが、なんとも魅力的ではないか。

空気は、常日頃、意識しにくいが、なくなると、その存在の大きさが分かるといわれている。食物を一週間摂らなくても命を維持することができる。しかし、空気はほんの数分摂取できなければ絶命してしまうのが生命体というものだ。でも、いつも存在していて、よほどの事件が起こらない限り無くなることがないので、空気はその存在意義や存在価値を認識されることが少ない。そして、無くして、その価値に気づいた時には、ほとんどの場合、手遅れとなる。命を失いかねないのだ。

その空気が動くと風になる。“転がる石に苔むさず”という。動いている者は、常に新鮮でいられる。老朽化しないのである。若さを保てるということだ。風は、いつも新しいのだ。

風は、さまざまなところに旅をする。峰を超え、大河を渡り、街を抜けていく。そして、そこに暮らす人々と交わり、その人たちに新しい人生を与えることもある。そんな風のような人がいる。風の又三郎然り、スナフキン然り。できるなら、風のように生きていきたい…と思う。いつも動いていて、いつも旅をしていて、そして、人とふれあうのが大好きで。そんな人間になりたいと思っている。

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