私にも、できそう…

誰も真似できないような上手な歌手は売れない。あれくらいなら真似できそうと思わせて、簡単に真似できない人が売れる。

ある売れない歌手がタモリに相談した。
「私は、誰よりも歌が上手いのに、全然売れない…。なぜなのでしょう?」と。確かに、彼女の歌は抜群に上手かった。それは、誰も真似できないようなレベルだった。タモリは答えた。
「上手すぎるんだよ。そんなに上手かったら、誰も真似しようと思わないでしょ。だから、売れない」と。

この話を聴いて、ぼくは、プロとは何か、ということが少し分かったような気がした。ぶっちぎりで上手かったらダメなんだ、と。いや、どんなに上手くても、誰もが到達できないような上手さを自慢するがごとく見せてはいけないのだ。あれくらいなら、もしかしたら自分にもできそう…と思わせるのがプロというものなのだろう。

同じような話をお世話になっているアーティストからも聴いた。あるアートの審査会で、超テクの作品が選ばれようとしていた。海外から招かれた審査員が意見をした。
「この作品は、テクニックに溺れてしまっている」と。
作品は、本来ならメッセージを伝えるためにテクニックを駆使する。それなのに、この作品は、メッセージよりもテクニックが立ってしまっている。本末転倒ではないか、というのだ。

いわゆる“ヘタウマ”という手法がある。誰でもできそうなローテクで表現されたものを指す。それを見る人たちは、半分バカにしながらも親しみを持つ。心の底にあるのは、“これくらいなら、自分にもできそうだ”という思いだ。でも、いざ、真似をしようとしても、その味を表現することはムズかしい。門は広く開け放たれているが、その奥にある道は狭く、急だ。だからこそ、人は魅せられるのかもしれない。

酷い言い方かもしれないが、現代芸術は、“巨大にするか、大量に並べるか”が勝負どころだと考えている。そんな作品がいかに多いことか。そして、もうひとつ感じるのが、“いかにテクニックをひけらかすか”である。いずれにしても、メッセージは二の次で、まず手法あり…のように感じる。すべてがそうだとは言わないが、そんな作品がけっこう幅を利かせているのではないか、といぶかってしまう。

タモリに相談した歌手は、技術に溺れて、本来、歌が持っているはずの目的を見失っていたのだろう。いかに、聴く人を感動させるか。それが、テクニックで驚かそうとしていたのだ。超テクに対して、人は目を丸くして驚くかもしれないが、心を動かすことは少ないだろう。

本当のプロとは、テクニックで驚かす人ではなく、テクニックを使って心を揺さぶる人なのだということに気がついた。プロとは、お金を稼げるとかではなく、人に“自分も同じようにしたい、なりたい”と思わせることができる人なのである。

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