外骨格を脱いでみると…

人類は外骨格を強化することで進化してきた。しかし、外骨格は、あくまでもアタッチメントのひとつでしかない。

省庁やスポーツ団体のガバナンスが問われる事件が、ここのところ続発している。公文書改ざん、負の忖度、パワハラ、セクハラ、裏取引き…。まったく一般庶民からすると信じられないような事が横行しているように見える。

昭和30年代から40年代に生まれた世代にとっては、こういった出来事はドラマやアニメの中で起こること…という印象があった。強大な悪の巨大組織が世界を征服するために不正の限りを尽くす。それに対して弱小ではあるが強い正義感を持った人々が戦いを挑む。今から思えば、勧善懲悪の強烈な匂いのするストーリーだらけだった。でも、子どもだったぼくは、正義の人たちの活躍に胸躍らせたものだ。

そんな原体験を持つ人間にとって、今、目の前で起きていることは、これまで「善」であると信じていたものが、オセロゲーム的に立場を逆転させて「悪」に転じたように見えた。「あなたは大岡越前だと信じていましたが、悪代官だったのですね」という感じだ。

現在のガバナンスについて思うことは、すべてが外骨格的だということ。それぞれのからだの中にガバナンスが入り込んでいない。まるで、甲冑のようにガバナンスを着ているように思える。からだの中に入れておけば、決して脱いだりすることはできない。しかし、外骨格あるいは甲冑だと、都合に合わせて脱ぎ去ることができる。自分の都合によってガバナンスを操作することができるのだ。

わが師、橘川幸夫氏に教えてもらったことは「情報社会に必要なことは、人々がルールを自身の中に摂り入れること」ということだ。よく“ルールに縛られる”と表現するが、これから先は、身の外にあるルールに縛られているようではいけないのだ。自らの身の内にあるルールを指標に自らを律していかなければならない。もしかすると、そのルールは“モラル”なのかもしれない。

ぼく自身は思う。もう甲冑は脱ごう。自らの身体を鍛えよう、と。脱ぐのが大変なら、せめて、身の虚弱さを思い知りたい。外骨格で守られていることを意識したい。この自覚が広がれば、世界は変わっていくような気がする。

(0011)

 

◎『如風俳諧』【小暑】をアップしています。

◎活版印刷研究所にコラムを掲載しております