南方からの物体X

奴らは、静かにかつ確かに広がっていく…気がついた時には、手遅れ。侵略されている。

かつて、奴らは、九州にだけ生息していた。ひとつの王国を築いていたのだ。繁殖能力に優れていたが、移動能力はそれほど高くはなかった。それが幸いして、王国の領土はさして拡大することがなかった。たまに、海を越えて冒険した無謀な奴もいたが、新天地で子孫を根づかせることはなかった。繁殖能力に優れているといっても一匹ではなすすべがなかったのだ。こんな状態が何万年も続いてきた。

昭和12(1937)年5月11日。大阪のまちは沸いた。道幅44m、道長4㎞のこれまでにない都市街路「御堂筋」が着工より11年の歳月を経て、ついに開通したのだ。道幅6mの狭い道が7倍に拡幅されたのである。100年先を見据えて整備された街路の下には地下鉄が走った。今では考えられない巨大プロジェクトであった。そして、景観を整えるため、北端の梅田から淀屋橋まではプラタナス、それ以南の難波までにはイチョウの並木が植樹された。今も、秋になると錦に燃える美しい景観を見せ、大阪の名物のひとつになっている。

並木の樹木は定期的に入れ替えられる。一説によると、1980年代に九州から移植されたものがあったという。樹木は根に土をつけたままの状態で九州から大阪へと運ばれた。樹木は新しい土壌環境にすぐになじむことができないので枯れてしまう。だから、元の土壌環境を保ったまま植樹するのである。奴らは、この好機を見逃さなかった。根に卵と幼虫を仕込んだのだ。大阪に着いた卵と幼虫は、九州の土に守られて、数年感間、地下に潜伏した。そして数年後、成虫が現われ、まずは個々に独唱をはじめた。歳月を重ねる中、都市のヒートアイランド現象も追い風となり、温暖な気候を好む奴らは、その繁殖能力の高さを武器に個体数を確実に爆発的に増殖させていった。今や、大阪では奴らの合唱ばかりが耳に入ってくる。奴らの合唱は、体感温度を数度上げているのではないだろうか。

今世紀に入って、東京都がある植樹を行った。その際に、御堂筋の並木の一部を友好の印に使ったという。この好機も奴らは見逃さなかった。都内で聞かれる奴らの合唱は、制覇の雄叫びなのかもしれない。だから、我々の耳に感じられるのは不快感なのだ。大阪も落ちた。東京も落ちた。横浜も壊滅に向かっているという。奴らは、このような大都市への戦略とともに地方都市への進出も進めている。我が家は京都府の中西部に位置する亀岡市にあるのだが、数年前から自宅周辺で奴らの声を聞くようになった。仕事場が大阪にあるので、「ついにやってきたか…」と思った。ここまできたら、ただただ奴らの侵略を静観しているほかない。トム・クルーズが主演した映画『宇宙戦争』のようなものだ。あんな結末は期待できないだろうけれど。

南方からの物体X。クマゼミたちの侵略は、これからも確実に進んでいくだろう。

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