見識と験識

見ざる 聞かざる 言わざる 見聞言を超えて体得するのが「験識」

百聞は一見に如かず…この一文は、誰もが一度は耳にし、口にしたことがあるだろう。他人から百回聞いたよりも自分で一度でも見た方が理解が深まるということを説いた俚諺だ。

この俚諺は、聴覚情報よりも視覚情報の方が多くの情報量を持っているということを示していると考えられる。確かに、人が獲得する情報のうち、視覚からによるものが90%にものぼるという説もある。人は、“目で見たこと”を最優先しているのである。「人は見た目が9割」というのも納得である。

でも、考えてみると、この視覚偏重が、現代人のイマジネーションを狭小化しているのではないか、と考えている。

視覚は、ある意味において「結果」である。一方、聴覚は「きっかけ」だとは言えないだろうか。視覚は動かしがたい事実であるのに対し、聴覚はそれを聞いて何かしらのことを想像するヒントではないかと思うのだ。人は、耳から入ってきた情報を基に、さまざまな想像、時には妄想を頭の中で繰り広げる生物なのだ。

例えば、虫の声や鳥の声。西欧人にとっては、ただのやかましい雑音にしか感じられないのだが、日本人にとっては、哀愁を感じるオノマトペだったり、ある種の意味を持った言葉に聴こえる。日本文化というものは、視覚だけでなく聴覚にも重きを置いた文化なのだと思う。これは誇るべきおで、将来にわたって大切に継承すべきことだと思う。

ところで、“百聞は一見に如かず”から連想する言葉に“見識”がある。見ることで得た気づき…というような位置づけだろうか。この“見る”が曲者だと考えている。遠近に関わらず、ただ傍目に見ているだけでは、その事象についての経験値は得られないとぼくは考えている。見ているだけではなく、触れたり、嗅いだり、五感での経験を果たさないと、真実というか本質は体得できないのではないか、と考えてきた。この五感での知覚をぼくは“験識”と勝手ながら呼んでいる。平たく表現すれば“経験知”といってもいいのだろう。

いわゆる“見識”なら、テレビやネットでいくらでも得ることができる。でも、“験識”は、実際に身体感覚でふれあわないと得ることはできない。ぼくは、この感覚こそを大切にしたいと考えている。

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