戦わずして相手に勝つ。

闘っているのか、会話しているのか… 指相撲は、とてもなごやかな戦いだ。

孫子は、兵法において一番大切なことは“戦わずして勝つこと”だと説いている。実際に戦闘を行って、大切な兵員に被害を出すことは、国力の衰退に通じる。兵を用いずして勝つことを考えるのが、将の務めだと説いているのだ。でも、そんな視点を持つ将がどれほど居るだろうか。

戦術に溺れ、自分の考え出した戦術を試すべく兵を動かす輩。自らの功のみに目を奪われ、兵の撃滅されるのもいとわない鬼。ただただ上意に従うのみで対局を視ずに無駄な行動指揮する愚者。これらは、戦争をしている時だけでなく、平和な現代においても通じることだ。

経済戦争、企業戦争などと呼ばれる現代、社会における経済活動は、まさに戦争と同じだ。いわゆるブラック企業と呼ばれる組織は、現場に過酷な奉仕行動を迫る。それは、「出世」とか「報酬」とか「自己実現」といったニンジンを目の前にぶら下げることで実施される。現場は、過酷な状況が続くと環境に馴らされ、いつしか感覚が麻痺してくるものだ。異常も日々続けば日常になってしまうのである。そして、適切な判断ができなくなってしまう。集団で不正が行われるメカニズムの根源は、こんな精神状態にあるのではないだろうか。

戦わずして勝つ…それには“権謀術数”に長ける必要がある。こう書くと、とても卑怯にならなければならないのか、と思えてしまう。しかし、別の視点からみると、それは“コミュニケーションに長ける”ということができるのではないか、と考えている。少し甘ちゃんな意見かもしれないが、ウィン・ウィンとなるような条件を探り提示していくとか…。そんな頭脳を駆使したコミュニケーションが、無駄な衝突を避け、新しい世界を築く轍となるのではないか、と思っている。

勇ましい姿は、確かに多くの人たちの羨望を集めることができる。潔い姿もたくさんの人たちの目に凛々しく映るものだ。しかし、時に彼らの行動は、自決的に向いてしまうことがある。どこかに滅びることへの美学が仕込まれているように感じられる。もっとも、人は“劇的”なるものに魅せられる。劇的とは、ある意味、滅びの美学や頑ななるものに冠されるような気がする。しかし、劇的とは、異界での出来事。すべてがそれに引きずられていては、未来はない。劇的養成ギブスを外して、もっと日常を生きるべきだと思う。

戦わずして勝つ。日常の生活において、それが具体的にどんな行動になるのか…それは、なかなかイメージできない。ただ、ひたすらコミュニケーションを取ってみることではないか…とおぼろげながらも思っている。自分の考えを明確な言葉で示し、相手の想いをからだで受けとめる。そういったことではないか、と思う。道は遠く長いかもしれないが、そこに向かって進んでいきたいと考えている。

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