妄想ノススメ

想像から妄想へ。発想の切っ先はは、どこまでも広がっていく。

 

発想術やクリエイティブのセミナーで、ぼくは、よくこんな発言をしている。
「想像なんか、はるかに飛び越えて、もっと妄想しなさい!」と。
すると、たいていの人は、頭に「?」を浮かべながら、困った表情を見せる。
その顔には、「妄想なんかしちゃダメでしょ」とあからさまに描かれているのだ。

そう、いわゆる一般常識というもので測るなら、妄想ごときものは、夢のまた夢、決して実現できっこないことを夢遊病者のように追いかけることとされている。確かに、ある意味においては、ご座候なのである。が、しかしである。養老猛先生ではないが、人はついつい無意識のうちに「壁」をおっ立ててしまう生き物なのだ。自分で立てておきながら、ついにはその壁を超すことができないで四苦八苦する。でも、立てたとはいえ、それこそ幻想の壁を勝手に実際の壁だと思い込んでいることが多いのも事実である。

かつて、何かの本で読んだことがある(題名も著者さえも忘れてしまった)。そこには「認識できないものは見えない」と書かれていた。もし、アフリカのサバンナにほとんど全裸で暮らす人が、靴を見ても、靴と認識できないので、靴は見えない…という意味だったと思う。つまり、靴を知っている人には、靴が靴として見えるが、靴を知らない人が靴を見ても何なのか分からず、景色の一部になってしまうということらしい。分かったような分からないような話である。

同じようなことが「想像」という言葉の中に含まれているような気がする。「想像」といったら、きっと心の中では、「常識ではそんなことしたらダメだもの」とか「そんなことを考えたらプライドが傷つく」とか、いろんな手かせ足かせを自らに課して考えることになるだろう。そういうタガをはめている限り、画期的なアイデアは出てこないのではないか…というのがぼくの持論なのである。

すべての「思い込み」を取り払って、あれこれと考えるのが「妄想」だと考えている。この妄想から、これまで誰も考えたこともない新しい発想が生まれてくるんだ、と信じている。だって、地動説なんて、妄想しなければ決して思いつかないのではないだろうか。地球が太陽の周りを回っている…。当時の知識では、噴飯ものである。同じく、万有引力だって、想像しているだけでは気がつかなかっただろう。地面いや地球がモノを引っ張っているなんて、逆転の発想を超えているではないか。まったく非常識で、妄想の領域に入っていると思う。

つまり、妄想とは、思い込まれている常識を超えることだ。現状の知識を超えることだ。今いる領域から一歩足を踏み出すことなのだ。それには、それ相応の勇気と覚悟が必要だ。自己責任を負うことができる人にだけ許された行為なのかもしれない。しかし、その決意をもって臨めば、悦びは格別のものになるだろう。

実現不可能だから妄想と呼ぶんだよ。そうおっしゃる方もいらっしゃるだろう。でも、でもぼくは思う。そんなこと誰が決めたんだ、と。可能と不可能の境界線は誰が決めるんだ、と。それは、実行する本人が決めることであって、誰もそれを云々することはできないと思う。もしかしたら、自分の代では不可能かもしれない。だとしたら、次の代、次の次の代に継いでいけばいいと思う。歳月を重ねることで、妄想は現実のものになるはずだ。江戸時代に月まで旅するなんてことは妄想極まる話だったろうが、今や実現し、そう時間が経たないうちに誰もが簡単に月旅行ができる時代がやってくるだろう。

そう考えると、妄想はひとつの予言といえるのではないか。そう、妄想する人間は、予言者なのである。時代を一歩も二歩も先ゆくことになるのである。そういった意味でも、どんどん妄想を進めたい。みなさんもいかがだろう。壁のある想像を止めて、どこまでも続く平原のような妄想を楽しんでみないか?

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