飛びぬけてデカかった…

周りから飛びぬけてデカいと、ついつい上から目線が日常になってしまいがち…用心、用心。

 

小さい頃から大きい子だった。幼稚園の頃の写真を見ると、ひとりだけ飛びぬけてデカかった。小学校4年生で160㎝になった。担任の女性教師は、昭和ひとケタ生まれの女性だったが長身で「あんた、私といっしょの背丈やね」と驚いていた。小学校を卒業する頃には170㎝になっていた。この頃、母親といっしょに買い物に行くと、知り合いのおばさんから「あらー、もう高校生やのん?大っきなったなぁ」と感心された。きっと、「この子、高校生やのに頭悪そうやな…」と思われていたに違いない。

そんなデカい子だったので、自然と周りから怖れられていた。ガタイがデカイというだけで畏怖心を駆り立てるのだろう。そんなこともあって、中学生までけっこうリーダー的な存在だった。でも、その理由は、他の子よりも体格がいい…ということだったのではないか、と今は思っている。それは、見た目が大きいというだけであって、中身とか器が大きいというわけではなかったのだ。それに気づくのが遅かったように、今は感じている。そう、ぼくはついこの間まで、自分を誤解して生きてきたのだ。でも、今、気づいている。手遅れではないと思っている。

とにかく中途半端は哀しい。異なる視点から見れば、それは“平均値”ということなのではあるが、それは、一面では“埋没している”あるいは“無個性になる”ということもできる。大きくなかったら、いっそのこと小さくなりたい…と思ったこともある。なんでこんなことを考えたかというと、中学生も3年目になると、それまで学校のヒマラヤ山脈のように扱われていたのが、周りの造山活動が盛んになっていって、どんどん山が高原になり、いつのまにか、こちらが見上げるような立場になってしまったからだ。大きな人間が平均的な人間になるのは、やはり哀しいことだった。高校生になる頃には、自分は平均ちょっと上なんだという意識が身についていた。等身大を知るということは、よいことなのではあるが…。哀しかった。

そんな十代を過ごして、今や五十路の半ば。今では、身長の大小なんて、まるで気にならないけれど、器の大きさには関心が向く。なんで、そんなことで怒ってしまうかなぁ…とか、つまらぬ小さな損得にこだわってしまっている自分を見つけた時には、激しく自分の器の小ささを実感して凹んでしまう。そんなとき、あの中学生の後半の記憶がよみがえってくる。あぁ、このままじゃダメだ、と思う。もう一度、等身大の自分を受け入れろ!そこからはじめろ!と。そんなことを繰り返している。あ、繰り返しているといっても俯瞰からだとグルグル回っているように見えるが、きっと横からなら上昇しているんじゃないだろうか。そう螺旋のようにグルグル回りながら上に向かって昇っているのだと信じている。きっと器は大きくなっているのだろう。きっと…。

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