鏡の向こう側

鏡に映っている自分は、実在する自分に対して、どんな意識を持っているんだろう?

松岡正剛氏が校長を務める「ESIS編集学校」。これは、編集術をネットによるeラーニングシステムを使って教えるという学校だ。基本編の「守」と応用編の「破」というコースがあって、両方を修了すると、生徒から教師に昇格するための「花伝所」というコースに進むことができる。せっかく編集術を学ぶのだから、教えられる立場だけでなく、教える立場も軽信しておこう、ということで参加した。生徒と教師の両方を体験することで、すごく立体的に編集を体得できたと、満足し、感謝している。

その「花伝所」の東京実習での話をしてみたい。3回ほど、東京に出向いて、松岡校長と講師陣から師範代(eラーニング教師)の研修を受けるのだが、最終回にある講師から質問を受けた。「みなさんが花伝所に来た目的は何ですか?」と。多くの受講者が、「編集術を教えることで、もっと編集を深く体得できる…」みたいな発言をしていた。その時、ぼくは、「鏡の向こう側に何があるのか知りたかった」と答えた。

花伝所を修了して、「守」と「離」の師範代を経験したのだが、ずっと最終回での発言が頭の片隅に残っていた。「鏡の向こう側」が見えてこないのだ。

鏡を前にすると、鏡面には自分自身が映っている。左右反転しているが、明らかに自分自身の顔がそこにある。それを見ているのは、まさしく自分自身であり、見ていると意識しているのもこちら側の自分自身である。でも、考えてみると、鏡に映っている者も自分自身である。その人物は意識というものを持っていないのだろうか。鏡に映った自分が、実在する自分に対してなんらかの意識を持つことはないのだろうか。それを想像…いや、認識することはできないのだろうか。そういう考えが基本にあって、先の発言をした。実在の自分と鏡の中にいる自分をつなぐことはできないのか…そんな思いが「鏡の向こう側」という発想をうみだした生み出したのだ。まるで、ヒーロー動画『ミラーマン』の世界であるが…。

それから数年経って、ある能楽師からこんな話を聴いた。「舞台に立っている時は、もう一人の自分が客席にいて、とても冷静に舞台で舞っている自分を見つめている。彼の意識が舞台にいる自分の中に入ってきて、舞に指示を与えてくれている」と。この話を聴いて、「!」と思った。「鏡の向こう側」とは、こういうことではないのか!と。鏡の中にいる自分を意識するということは、自分からあたかも幽体離脱したような自分の意識で、自分を見つめることではないか。それは、損得や利害、自分の立場、他人との関係…さまざまな雑念ともいうべきフィルターをすべて捨て去って、なにか大いなる「理」とでもいうべき尺度で、率直に自分を見つめること。言葉にするのは容易だが、実際に行うことはとても難しい。

最近、過酷な状況に陥っている。ついつい自分を卑下したり、否定したりしてしまっている。そんな中、自分とは何か…ということをすごく第三者的に見つめる術があることを知ることにつながっているかもしれない…と気づいた。「我思う故に我あり」。デカルトはすべてを否定して、この命題を発見したのであるが、我を思っているのは、実は鏡の向こう側にいるであろう自分なのかもしれない。そこまでは、なんとなく理解したのであるが、まだ、鏡の向こう側にいる自分とはつながっていない。そうなることが、つまり「悟りをひらく」ということなのだろうが、まだまだその域には達していない。まさに、ぼくのライフワークなのだと考えている。

(0003)

 

◎『如風俳諧』【小暑】をアップしています。

◎活版印刷研究所にコラムを掲載しております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です