あいこ

グーはチョキに勝つが、チョキはパーに勝つ、パーはグーに勝つ。誰かに勝っても、誰かに巻ける。じゃんけんは、絶対勝者がいない。

お茶屋遊びのひとつに「とらとら」というのがあって、二人が対になって勝負する遊びである。対戦者は、「和藤内」「お婆」「虎」のいずれかになって、みんなから「とら、と~ら、と~ら、とら」と囃したてられながら、隠れている衝立からでてくる…そんな遊びだ。別名「虎拳」とも呼ばれている。

「和藤内」とは近松の『国姓爺合戦』の主人公。日本(和)でもなく唐(藤)でもない(内)というしゃれから生まれた名前だ。豪傑の人だったが、ただ唯一、自分の老母には頭が上がらなかったという。だから、「和藤内」は「お婆」には勝てない。その「お婆」は、「虎」に食べられてしまう。だから「お婆」は「虎」には勝てない。「虎」は、豪傑の「和藤内」に撃たれてしまう。だから、「虎」は「和藤内」には勝てない。

…というふうに、それぞれに勝てる相手と負ける相手がいて、誰が一番強いかを決めることができない。いわば、人間じゃんけんのような遊びである。そこには、絶対勝者というものが存在しない。それが、じゃんけんの魅力なのではないか、とぼくは考えている。

勝つときもあれば、負けるときもある。あいこになるときもある。これって、「人生」だなぁ、と思う。特に、あいこに人生の機微を感じるのだけれど…いかがだろう。

たくさんの人が集まって、じゃんけんをすると、あいこばかりが続いて、なかなか勝負がつかない、というか、勝負にならないことがある。人生って、そんなものなのではないだろうか?本人は、十分に勝負している気でいるけれども、実際は、勝負になっていないことって多いのではないだろうか。ほんとうは、勝負しなくたっていいのに、何か戦っている感がないと満足できないので、かたちだけでも勝負しているフリをしている。考えてみると、そんなシーンっていっぱいあるように感じる。ムリして、勝負することもあるまいに、と。

そんな勝負に対する脅迫観念が、「競争社会」をつくり出してはいないか。勝ち負けに価値を見出すような世情をつくり出してはいないか。今は、「グー」に勝ち目があるよな…なんて、考えがはびこっていないか。多様性の時代だ。「グー」でも「チョキ」でも「パー」でもいいではないか。自分の好きな手を出せばいいのだ。勝てるかどうかは、時の運。好きな手で負けたなら、本望ではないか。絶対勝者の手なんて、ないのだから。

 

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